最近、任意精度で演算をするルーチンを実装したのだが、そこで人間が数と量について把握してきた歴史などについても考えさせられた。
初等的な数学を実行できるようになるには、おおよそ、次のようなステップを人間は必要としてきたといえるのだろう。
まずは、モノの個数や量の大小を表せる記号体系が自分達の間で通用するようになる。
あるいは、記号体系と自分の指やその生活環境で変わりにくいもの(月の満ち欠けや山の頂の数など)と「一対一対応」を発見する。
そして、空っぽであることやなくなってしまうということを量的に、ついで、「ない(空位)」ということを記号で表すことを発明する。
また、桁の数が、量的な拡大・縮小の感覚と正確に一致することも常識化していく。
量的な把握の感覚をもとにした「損得」や「困難さと容易さ」などの比較(力比べや勢力自慢)を、数の操作(演算体系)によって表現しなおすことで実態にともなったものにできることを見つけ出し、「統治と安寧」をより確かな(あるいは、窮屈な)ものにしていく。
また、桁数は変えずに数の操作で得られた「実態についての情報」を、量的な把握の感覚で捉えなおすために「概数と数の丸め(四捨五入など)」を利用するようになる。
数の操作により「ちょうど分けられる(公平性の起源)」「あまりがでる(余剰の占有と備蓄による権力構造の起源)」「ある状況が可能であるか否か(空集合と単位元、あるいは、真と偽)」などの概念と通念が、より確かなものとして承認されていく。
それぞれに承認された確からしさ・信頼というもの(税金の徴収や通貨の流通価値の保証など)が異なる集団同士での交換・交易・競争・戦争が起きるごとに、「有益であるか否か」「損害を与えられるか否か」を表す指標とそれらの相乗効果を把握することが必要になっていく。正負の定義である符号とそれが異なる数同士の操作を見つけ、そこにある「直交性・可換性・分配則・絶対値」などを定義づけていく。
いくつもの帝国や交易国家の勃興に伴い、これらの数の操作それ自体が持っている「性質」が見出され、「神話や伝承、過大な夢・希望」からはなれて「人間の能力や物理世界の制約」を見つめることができるようになっていく。
その一方で、量の感覚を数の操作で正確に扱えるように、また、数の操作の結果を量の感覚で捉えなおすために、数の操作に関わる「基本事項」を教育しその遵守を徹底させる必要も高まる。教育を家庭や地域の人間関係・商行為に付随するものではなく、公的財産として管理・運営するべきであることも確定していく。
数の操作と量の感覚の調律が進むほどに、数の操作それぞれに潜んでいる本質的な事柄に到達している手順・議論の組み立て方が大きな価値をもつということが認められる。また、そのような議論について、より高い正確さとより深い本質の探索を奨めるために、「公的な議論とそこでの結論の承認」にも権威が認められていく(公民会議や法治の独立)。
人間達と数のかかわりが、ここまでの変遷を辿ったことにより「我々の未来をどのように見積もればいいのか」「ある危険を犯すことは、どれだけの価値をもたらすのでなければ正当化されないのか」について「考える・求める」ことができるようになった。
つまりは、自然対数の発見と指数関数、そして実数範囲での冪乗と冪根をもちいた「解析的な数」の演算で把握される「我々のやっていることの変転とその果て」を見つけ出すことができるようになる。
これらの量と数についての「初等数学的な理解」の体系とその証明・検証を踏まえたうえで、
民主的な政治上の議題 Isuue は、提出され議論されるべきである
と、なる。
金融恐慌による「大きな財政出動」とそれにともなう「長い間(多分、一世代まるごと)続く、負あるいはゼロ成長の時代」を行わなければならない時に、この国やアメリカでのさばっている「政治のようなものの議論」は、はるかに信頼に足らず検証もされていない、
空理空論、未来に「負債と労苦」を担わせる判断を正しいと認識できない愚昧さ
ばかりである。
これは、極めて残念であり、まったく「人間を愚弄している」状況でしかないと考える。
「民主党」も「自民党」も「財界」も、初等数学的な理解の程度でいえば、まったくダメ。
アメリカにも日本にも(おそらくは中国にも)必要なのは、「検証と精確さの追求に耐えられる政治機械」として自らを差し出す覚悟のある「政治家」である。
また、それ以外に求められているのは、初等的数学を超え出た「高等的な数学ツール」を、人間のありように使いこなしていく「努力」でもある。
FYI: Wolfram MathWorld: The Web's Most Extensive Mathematics Resource
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